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このブログは,大学・高校受験,資格試験の受験,勉強法,使用参考書,予備校,塾での指導などについて綴ったものである。また,さまざまな箇所からの役に立つと思われる情報もあつめている。

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2024/05/05(Sun)18:46:34
<結語>
幸い「現代文の勉強の仕方」スレでは、こうした現代文の勉強にまつわる迷信を取り除き、
効率よく成績を上げていける方法を探そうと、さまざまな方によって勉強法が模索されている。
受験生の方は、このスレなどを参考に、自分が本当によいと思うものを自分の責任において選択し
現代文の勉強に役立てていっていただきたい。
 
 
【註】
(1)ここで言う「文法」とは狭義の口語文法のことのみを指すのではなく
「現在の日本人が一般的に用いている言葉の用い方」ともいうべきものであって、
広い意味での「言葉づかい」総体を指すものと考えてください。
 
(2)入試現代文ではよく「客観的な読み」という言葉が使われるが、
ここでいう「客観的」とは、あくまで、「主観的な読み」を戒めるために用いられている、
元の意味から離れた便宜上の用法であることには留意しておきたい。
入試現代文の世界において「客観的」という言葉が大々的に広がることになったことには
『田村の現代文講義』の果たした役割が大きいと思うが、
田村氏はあくまで「"客観的"」と、""(クォーテーションマーク)でこの言葉をくくって用いており、
われわれが日常的に使っている「客観的」という言葉とは区別していることに注意しておきたい。
『新・田村の現代文講義 第1巻』の冒頭の説明では、「"客観的"」という言葉を持ち出したすぐ後で、
現代文における"客観的"とは、文中に根拠を求めるようにすることである
と書かれ、この入試現代文における独特の術語の意味が定義されている。

(3) 石原千秋氏は『教養としての大学受験国語』において、この入試現代文という科目の勉強を通じ(利用し)
  受験生にさらにその先へ行ってもらいたいという希望を述べている。
 
「… 「読解術」を「強化」しても、僕にはまだ大学の新入生としては不足なのだ。
では、僕が身につけてほしいものとは何か。それが文章との距離の取り方なのだ。
それは、高校国語と大学受験国語とのギャップを埋める方法でもある。
ふつう、受験国語の現代文の読解では、批評意識を持つことは許されていない。
その文章で語られていることが、あたかも絶対に「正しい」かのように読解することが求められている。
あるいは、読解の向こうにたった一つの「真実」があるかのように。
だが、この本の読者には批評意識を持ってもらいたいのである。
 では、それを実践するためにはどうすればよいのか。それは、現代文を信じすぎないことだ。
そこに書いてあるのは、一つの思想にすぎないからだ。では、どうすれば現代文を信じすぎないですむのか。
それは、現代文に対して自意識を持つことだ。自意識を持つということは、ある文章を読解しながら、
もう一方でその文章を相対化することである。では、どうすればそのような自意識を持てるのか。
思考のための座標軸を持つことだ。そして、その座標軸の中に文章を位置づけることだ。
僕は、それを思考の方法と呼ぶ。…(中略)
…この座標軸をできるだけたくさん持つこと、それが僕がこの本で言う「教養」だ。
その意味で、教養とは知の遠近法のことだと言ってもいい。これ一つしかないというのは、知的ではない。…」
(石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)pp.13-14. より)
 
(4)これに対しては、「入試作成者は受験生をふるいにかけるために問題を作っているのであって、
そんな小難しいこと考えて問題なんか作成していない」という志の低い問題作成者もいることは否定できない。
だが、現にこの現代文という教科によって受験生は大学受験期において必然的にある程度難しい文章を読むようになっており、
この過程のおかげで現代の日本人の知的レベルが維持されているのではないかとする見方もありうるのではなかろうか。
 
(5) ただし、これはあくまで入試現代文という科目の「枠」の中だから通用しているひとつの「ルール」なのであって、
「読む」という営為はそんなに単純なものではないことには留意しておきたい。
「読む」という行為にあたっては感覚・主観・先入見・暗黙の前提などの介在は免れえず
文の意味などというものは文法規則だけから一意的に決まるほど生易しい存在のわけがない。
結局、入試現代文という科目において正答・誤答を判断しているのは「出題者」なのである。
つまり最終的に入試現代文とは、文章の作者ではなく、出題者が問題文からそう「解釈した」内容を答える科目だと言える
石原千秋氏の著書に
「客観(選択肢)問題は文章との対応関係を見抜く力を試すもの、
記述問題は出題者と認識の枠組みを共有する力を試すもの」
という言葉が書いてあるが、これは入試現代文の特質を端的に表しているといえる。
だが「出題者と認識の枠組みを共有する」といっても、入学者を選抜する入試という過程においては、
出題者自身にしか分からないような特殊な解釈を答えるのでは、客観的基準に基づく試験になりえない。
となると、出題者は、
「現代の人の一般的な認識の枠組みや文法などに普通に従えば、この文章からはこういう内容を引き出すのが妥当だろう」
という前提のもとに、問題を作成・採点をすることになる。
これを踏まえて考え言い直すならば、入試現代文という科目は、
「『問題文のテクストを、特殊な解釈を避け、大多数の人の一般的認識枠組みや言葉づかいを前提としたならば、
この文章からはこういう内容を引き出すのが妥当だろう』と出題者が考えた(解釈した)内容を、受験生が解答する科目」
と言った方がより適切かもしれない。
受験生はこの現代文という科目の重要性を踏まえたうえで、
現代文という科目それ自体や入試現代文における読み方を絶対視しない「距離のとり方」をわきまえておきたいものである。
 
(6)このへんの事情については、以下のやり取りも参照のこと。
 
647 名前:大学への名無しさん 投稿日:03/08/15 19:17 ID:kIoRM07E
現代文と格闘が評判みたいなので買ってみたんですが
あれは、みなさんはちゃんと段落の要点を書いたりしてすすめてるのでしょうか?
この本に要点を書いていくようにとかかれていたもんで・・・
要点とか書いてたら時間かかってやばいですよねえ?
                                                                       
648 名前:大学への名無しさん 投稿日:03/08/15 19:20 ID:BijSwHqa
>>647 その作業をすることによってこそ、力がつくのではないでしょうか。
 
651 名前:648 投稿日:03/08/15 20:31 ID:BijSwHqa
>>467
その作業をキチンとやってる人は、実はそんなにいないと思います。
でもだからこそ、「偏差」値が上がるのだと思いますよ。
要するにやると良いと解ってて、人がやらないことをキチンとやる人は
「偏差」値が高くなる。とまぁ、そうゆうカラクリなんですわ。
 
652 名前:大学への名無しさん 投稿日:03/08/15 20:38 ID:tHrpC3VG
要するに現代文って、真面目に地道にやるしかない教科なんだよね。
でもそれがとてもつらいからみんな横道に逸れたがるんだろうな。
 
地道に真面目にやるしかない
でもそれがとてもつらい
めんどくさいのはイヤ
なんか楽な方法無いっすか?
「現代文には公式がある!」
神様キタ━━━━━━ヽ(゚∀゚)ノ━━━━━━ッ!!
 
…と、釣られるわけだ。
 
(7)このサイトでも紹介されている『田村の現代文講義』、『現代文と格闘する』、『現代文のトレーニング』などの参考書は
昔から難関大志望者に定評のある参考書であるのだが、
一方で「解説の文章が難しくて意味が分からない…」という意見も多く見られる。
ここには上に挙げたような、現代文が苦手な人が現代文の勉強をする際にぶつかりやすい
独特の悪循環の問題が関係しているためと考えられる。
 
【参考文献】
・石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)
・石原千秋『大学受験のための小説講義』(ちくま新書)
・石原千秋『秘伝 中学入試国語読解法』(新潮選書)
・田村秀行『新・田村の現代文講義 第1巻、第2巻』(代々木ライブラリー)
・田村秀行『田村の総合現代文』(ライオン社)
・田村秀行『田村の現代文年間カリキュラム 第2巻』(栄光)
・竹国 友康・前中昭・牧野 剛『現代文と格闘する』(河合出版)
・『ことばはちからダ!』(河合出版)             ほか

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/2996/gendaibun/
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2009/04/25(Sat)12:56:39
<第2章 入試現代文のためにはどう勉強したらよいのか?>
 
ここまでは、「入試現代文という教科が受験生にどういう力を問うているのか」について述べてきた。
それでは次に「現代文の成績向上のためにどういう勉強をすればいいのか」について考えていく。
 
[(i).公式なき科目]
いきなり身も蓋もないことを言ってしまうが、
「入試現代文という教科には、普遍的に通用する公式などはない」というのが実情だろう。
おそらく、入試現代文に慣れた人ほどこのことが身に染みて分かっているのではないだろうか。
現代文という教科が否応なくはらまざるをえないこうした曖昧さが、
受験生の入試現代文に対する毛嫌いや、勉強しても無駄な教科だという思い込みや、
「センス崇拝」などの数々の神話を生み出してきたように考えられる。
 
数学や理科は公式というものが存在し、
(あてはめるまでの過程が大変なのだが)それにあてはめれば答えは(ほぼ)一つに決まる。
地歴は、だいたいの大学の問題なら、用語と流れを覚えてそれを書けばいいだけだ。
ところが、現代文はそういうふうに明確な公式はないし、暗記でも解けない。
こうした現代文の捉えどころのなさが、受験生を不安に陥れる。
「公式もないし、暗記でも解けない現代文に対し、いったいどう対処すればいいのか?」と。
 
 
[(ii).現代文の勉強における危険]
そして、こうした現代文への不安を見透かしたかのように、受験業界はこうした受験生につけこむのである。
例えば、「現代文は誰にでも分かる!」であるとか
「現代文にも公式がある!」というようにセンセーショナルにアピールすることで
現代文をあたかも「わかりやすいもの」であるかのように信じ込ませる風潮である。
設問テクニックをあてはめるだけで解けるような安易な入試問題も一つや二つはあるかもしれない。
(そうした参考書では、講師が「編み出した」テクニックに適合する問題ばかり選ばれているのだからあてはまって当然である)
だが参考書で設問テクニックばかり身につけたつもりになっていても、
初めて目にする問題文の内容を的確に理解するという根幹をおろそかにしたのでは、現代文の成績は安定しない。
 
こうした風潮というものは、入試現代文の現実から目をそらし、
自分が信じ込みたい「幻想」を現代文に投影するだけにすぎず、
なんら入試現代文に対応する力をつけることにつながってはいないのである。
もちろん現在の現代文講師すべてがすべてこういう人ばかりではないことは言うまでもなく、
現代文の現実を十分理解して良心的に指導してくれる頼りになる講師もいる。
(大抵、そういう現代文の難しさをわきまえた講師は必然的に厳しくなるので毛嫌いされがちだが。)
だが、さきほど述べたような、受験生の不安を見抜かして、甘い言葉でそこに付け込もうとする現代文講師もいるのが現実なのである。
受験生は、こうした現状があることをよく踏まえたうえで、甘い言葉で人をつるような講師・参考書は避けていくよう注意せねばならない。
こういう甘い言葉につられると、最終的にひどい目に遭うだろう。
たとえそういう結果になったとしても、最終的にはそういう勉強法を選んでしまった自分の責任なのである。
 
 
[(iii).入試現代文のための勉強とは?]
さきほど私は「入試現代文という教科には普遍的に通用する公式などはない」と述べた。
「では現代文はどうやって勉強すればいいんだ!」と言われるだろう。
入試現代文の勉強の仕方については、先ほども出たように
 
・読書
・語彙・漢字
・基礎的な方法論の習得
・過去問・問題集で実戦経験を蓄積
 
これらをコンスタントに積み上げていくことである。
 
.まず読書。これはまとまった量の活字を読んでもついていけるだけの頭の持久力をつけることや、
現代社会においてどういうことが問題になっているのかという背景を理解することが主眼である。
(さらにまた、文章を読む経験をつむことで語彙量を蓄積する効用もある。)
 
. 語彙・漢字については、1と関連するが、文章に出てきた単語をその度ごとに辞書でチェックすることが大事である。
「漢字問題集を(ある程度早い時期に)1冊仕上げる」「現代文用語集で熟語を覚える」というのもそれはそれで大事なのだが、
「文章を読んでいる途中で出てきた語をその度に辞書or用語集でチェックする」というのが語彙定着の上では普通のあり方だろう。
 
.「基礎的な方法論の習得」についてはこのサイトでも方法論習得のための参考書がいろいろ挙げられている。
入試現代文がどのような教科か把握し、どのように問題文を読み設問を解いていけばいいのか
その基本的作法を身につけるためのものである。
 
.方法論習得系の参考書で基礎作法を身につけた後は、それを実際に過去問・問題集で演習をつまないと身につかない。
自動車の運転の仕方を本で読んでも、実際に車の運転をしなければ運転の仕方が身につかない。それと一緒である。
方法論習得系の参考書をやっただけで安心してしまう人が結構いるので、ここは注意してもらいたい。
 
これら4つのいずれが不足しても現代文の成績上昇にはつながりにくいだろう。
 
いくら参考書で設問を解くテクニックだけ身につけた「つもり」になっていても、
根本的な読書不足のせいで本文の内容を読んでも理解することができなかったら、さっぱり問題は解けない。
語彙や漢字が足りないのでは本文をまともに読めないし、記述解答もまともな内容のものを書けない。
どれだけ読書量をつんでいても、「現代文は個人の意見を述べる場なんだ」と
現代文という教科を勘違いしているようでは点が取れない。
基礎的な方法論を身につける参考書をやっていても、その後過去問で訓練を積んでいなければ
経験不足で実戦的得点力は身につかない。
 
この4本柱を密接に関連付け、本番入試まで絶えず倦まず繰り返すこと。
現代文の力をつけるためにはこれしかない。(6)
 
 
[(iv).入試現代文の勉強に特徴的な点―解説による自己検証]
この現代文という教科の勉強で重要なのは
「問題を実際に自分の頭でじっくり考えて解いてみて、その後解説を読んで自分の解答のプロセスを修正する」
という、この過程を繰り返すことである。
ここで入試現代文の勉強できわめて特徴的なのは「解説を読んで自分の解答のプロセスを修正する」という部分である。
現代文の勉強においてはある程度の問題演習で経験をつむことが最低限必要であるが、
普遍的な法則がない以上、その都度その都度自分の解答法をチェックし、修正を加えていくしかないのである。
この自己検証の経験を積んでいくことこそ、現代文の成績上昇のためには必須なのである。
極端な話、結果的に出てきた答えよりも、
解答するときにどれだけ自分の納得のいく解答のプロセスを積み上げたか、その方が重要ではないだろうか。
現代文では二度と同じ問題は出ないと言ってよい。
そうである以上、答えを覚えても意味はなく、次に生かせる「経験」をどれだけ積んだか
それが本番入試のためには重要だからである。
 
 
[(v).現代文が苦手な人の陥る悪循環]
ところが、現代文の勉強に慣れてない人や活字を読むことに慣れてない人は、
よくこの自己検証の過程の重要性を見落としてしまう。
「解説を読むのがつらい…」「解説を読んでも難しくてよく分からない…」と、解説をおざなりにしてしまいがちなのである。
ここが、現代文初学者のつまずきやすい点である。
 
 現代文が苦手な人が現代文の勉強をしようとする
 ↓
 だが、現代文の苦手な人は活字を読むこと自体が苦痛である
 ↓
 問題文が読めないだけでなく、解説を読むこと自体も苦痛である
 ↓
 解説をまともに読まない
 ↓
 現代文が苦手なまま
 
現代文が苦手な人は活字を読むこと自体が苦痛のため
現代文の勉強の過程において、この悪循環から抜け出しにくいのである。(7)
 
そして、現代文の苦手な受験生はこの悪循環から早く抜け出したいため
「私たちが普段使ってる日本語なんだから、今さら勉強しなくたっていいじゃん!」と勝手に思い込んだり
「現代文なんてやっても無理…」だと思い込んで現代文の勉強を諦めたり
「現代文は公式だ!」などと耳当たりがよい甘い言葉で人を釣る参考書に逃げたりしがちなのである。
 
[(vi).現実の直視]
はっきり言おう。「現代文は、ある意味つらい教科である」と。
 
これまであなたが「読めなかった」ものを、なんとかして「読める」ようにするのである。
「無」から「有」に変えるのであるから、
その変換に必要なエネルギーは皆さんが思っているよりずっと大きいと言わざるをえない。
だが、その現実から目をそらしていては何も変わらないのではないだろうか。
「現代文の勉強は大変だ」という現実から目をそらし甘い幻想を信じこみ続け、現実の本番入試で奈落に落ちるよりも、
この現実を直視し、それを克服しようと一歩一歩積み上げていく方がはるかに自分のためになるのではないだろうか。
現代文の成績は、勉強をしなければ決して上がらない。しかし、適切な方法で本番までコンスタントに積み上げていけば
着実に上がっていくのである。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/2996/gendaibun/

2009/04/25(Sat)12:49:26
<序>
入試現代文という教科がなぜこんなに捉えがたい教科と受験生に思われているのかと言えば、
1.入試現代文という教科が受験生にどういう力を問うているのかが分からない
2.現代文の成績向上のためにどういう勉強をすればいいのかが見えづらい
というのが大きな要因として挙げられると思う。
 
<第1章 入試現代文とはどういう教科なのか?>
[(i).入試現代文で問われている力]
入試現代文がどういう教科であるかについては田村秀行氏をはじめ予備校の先生方が繰り返していることであるが、
「与えられた文章を、誰もが日常的に使っている現代日本語の「文法」(1)に従って、
 正確に内容を把握し(いわゆる「『客観的』な読み」(2))、本文から導くのが妥当だと思われる内容を解答する科目」
というふうにまとめられると思う。(3)
大学に入学した後は、みなそれぞれ独力で専門書を読み解きつつ専門の授業に参加していかねばならない。
そういった大学での授業についていけるだけの基礎的なリテラシー(読み書き能力・教養)能力を受験生が持っているかどうか、それを大学側は現代文という教科で問うていると言える。(4)
 
[(ii).テクスト分析としての入試現代文]
よく、「大学入試の現代文問題を、その著者に解かせたら間違えた」とか著者が「私はこんなことを言うつもりだったんじゃない」と言ったりとか「筆者の本心」というものをタテにして入試現代文を批判する論調があるが、これは入試現代文の特徴を理解していない発言と言わざるをえない。
こういう批判に対してはこういう疑問を返すことができる。
「でも、あなた(筆者)のこの文章を、われわれが用いている一般的な言葉づかいに従って読み解いたならば、こういう内容を引き出すのが妥当なのではないでしょうか」と。
入試現代文の内容読解に関しては、文章に表れていない「筆者自身の真意」といったものは介在する余地がない。
あくまで与えられた文章(テクスト)それ自体から、引き出すのが妥当と思われる内容を解答する(5)のがこの現代文という教科なのである。
 
[(iii).高校国語と大学入試現代文の間の距離]
大学入試現代文が難しい要因として、高校の現代文と大学入試現代文の間にかなりの懸隔(へだたり)があることも挙げられる。
これはさきほど述べた、「現代文は大学の授業についていけるだけのリテラシー能力を持っているか問う教科だ」というところと関連する。
大学は国語学・国文学だけを研究している場ではない。法学、政治学、経済学、歴史学、哲学、心理学、社会学、教育学… こういったさまざまな領域の学問が研究されているのが大学という場であり、入試現代文を出題しているのはこうした大学で研究している先生たちなのだ。
大学の先生方は入試現代文という科目で、こうした大学で現在研究されているさまざまな学問領域の文章を出題し受験生の頭がそれについていけるかどうか、その準備が受験生に備わっているかどうかを問うてくるのだ。
ところが高校の国語では、こうした大学で現在行われているような学問内容を知る機会は少ない。
それどころか、高校国語では小説などの文学作品を多く扱っていることもあって、「現代文=文学」という思い込みが受験生に刷り込まれかねない。
「現代文=文学」「現代文=小説」という思い込みを抱いてしまっている受験生は、まずその思い込みを捨てるところから始めたほうがよい。
入試現代文は、「文学の読解」ではない。大学で現在行われている学問についていけるか、その基礎力を問うているのだ。
入試現代文を、「高校国語の延長線上」ではなく「大学の初歩」と捉える発想の転換が必要だろう。


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2009/04/25(Sat)12:39:45




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